本コラムでは、M&Aのプロセスで登場する主要な契約書・合意書の種類、それぞれの役割と要点を、M&Aを初めて経験する経営者・担当者にもわかりやすく解説します。
目次
M&Aと契約書の全体像
M&Aのプロセスは、最初の相談・マッチングから成約・統合まで複数のフェーズに分かれています。各フェーズで締結される主な書類は次のとおりです。
検討開始〜マッチングの段階では秘密保持契約書(NDA)を締結します。トップ面談後の意向確認の段階では意向表明書(LOI)を取り交わします。デューデリジェンス(DD)開始前の段階では基本合意書(MOU)を締結します。DD完了後の最終契約の段階では株式譲渡契約書(SPA)または事業譲渡契約書を締結します。そして成約・統合の段階でクロージングが実行されます。
M&Aを進めるなかで締結する書類の多くは英語の略称で呼ばれることが多く、初めて関わる経営者には馴染みが薄いかもしれません。しかし各書類の役割と要点を事前に把握しておくことで、専門家との議論もスムーズになり、自分の権利・義務を正確に理解したうえで意思決定ができるようになります。
NDAと意向表明書は比較的シンプルな書類ですが、基本合意書・株式譲渡契約書・事業譲渡契約書は法的に重要な条項が多く含まれます。特に最終契約書(SPA・事業譲渡契約書)は、取引の根幹を定める法的拘束力のある文書であり、弁護士の関与のもとで内容を慎重に確認・交渉することが必要です。
秘密保持契約書(NDA)
秘密保持契約書(NDA:Non-Disclosure Agreement)は、M&Aの検討を開始する段階で最初に締結される契約書です。売り手・買い手の双方が、M&Aの検討過程で知り得た相手方の情報を第三者に開示したり、M&A目的以外で利用したりしないことを約束します。
NDAの主な記載事項
秘密情報の定義では、どの範囲の情報が秘密保持の対象になるかを定めます。財務情報・顧客情報・技術情報・人事情報など広く定義されるのが一般的です。目的外使用の禁止では、開示された情報をM&Aの検討目的以外に使用してはならないことを定めます。第三者開示の禁止では、秘密情報をM&A検討に関与するアドバイザー・弁護士・専門家以外に開示してはならないことを定めます。有効期間については、通常1〜3年の期間が設定され、M&Aが不成立に終わった場合も一定期間は義務が継続します。
NDAの注意点
NDAは比較的シンプルな契約書ですが、いくつか注意すべき点があります。秘密情報の範囲が広すぎる場合、通常業務の情報も対象に含まれてしまうリスクがあります。競業避止条項(NDA相手の競合企業との検討を制限する条項)が含まれている場合、複数候補との並行検討が制限されることがあります。また、NDAの有効期間終了後も、特定の情報(個人情報など)については引き続き秘密保持義務が継続する旨を確認しておくことが重要です。
意向表明書(LOI)
意向表明書(LOI:Letter of Intent)は、買い手がトップ面談・初期検討を経て「この案件について前向きに進めたい」という意向を売り手に伝えるための書面です。法的拘束力を持たない場合が多いですが、M&Aの交渉を本格化させる重要な節目となります。
LOIの主な記載事項
買収の意向表明では、対象会社・事業の買収について前向きに検討する旨を表明します。想定買収価格(概算)については、初期検討に基づく買収価格のレンジ(例:X億円〜Y億円)が示されます。この段階の価格はあくまで概算であり、DDの結果によって変動します。スキームの方向性では、株式譲渡・事業譲渡など想定するM&Aの手法を記載します。デューデリジェンスの実施意向では、本格的な調査(DD)を実施する意向を表明します。独占交渉期間の希望については、一定期間(通常1〜3ヶ月)について他の買い手候補との交渉を停止するよう求める場合があります。
LOIの注意点
LOIは法的拘束力がない場合が多いですが、秘密保持・独占交渉権の部分だけが拘束力を持つ場合もあります。LOIに独占交渉期間の条項が含まれている場合、その期間中は他の候補先との交渉が制限されるため、提示された価格・条件が十分に納得できるものかを慎重に判断したうえでサインすることが重要です。
基本合意書(MOU)
基本合意書(MOU:Memorandum of Understanding)は、トップ面談・初期交渉を経て双方が合意した基本的な条件をまとめた書面です。通常、LOIを経た後にDDの開始前に締結されます。MOUは原則として法的拘束力を持ちませんが、独占交渉権と秘密保持義務の条項だけは法的拘束力を持つことが一般的です。
MOUの主な記載事項
買収スキームでは、株式譲渡・事業譲渡など採用するM&A手法を記載します。買収価格(概算)では、LOIよりも具体的な価格(または価格の算定方法)を記載します。独占交渉権では、一定期間(通常1〜3ヶ月)買い手に独占的な交渉権を付与します。この期間中、売り手は他の買い手候補との交渉・協議を行えません。DDの実施合意では、DD実施の範囲・期間・協力義務などを規定します。クロージングの前提条件(概要)では、M&Aの成立に必要な条件の骨格を記載します。秘密保持義務については、NDAの内容を引き継ぐか、MOU内で改めて規定します。
MOUの注意点
MOUに定める「独占交渉期間」は売り手にとって大きな拘束となります。独占交渉期間中は他の候補との交渉ができなくなるため、独占交渉期間の長さと開始条件を慎重に検討することが重要です。また、MOUに記載された概算価格はDDの結果によって変動する可能性があることを、双方が明確に認識しておく必要があります。
株式譲渡契約書(SPA)
株式譲渡契約書(SPA:Stock Purchase Agreement)は、M&Aで最も一般的に使われるスキームである「株式譲渡」を実行するための最終契約書です。DDが完了し、最終的な価格・条件が合意された後に締結(サイニング)されます。SPAは法的拘束力を持つ本契約であり、M&Aの成立に向けた最重要書類です。
SPAの主な記載事項
譲渡株式の特定と対価では、譲渡する株式の種類・数量と、買い手が支払う譲渡対価(金額・支払方法・支払時期)を明確に定めます。クロージング条件(前提条件)では、SPAのサイニングからクロージング(株式移転と代金決済の実行)までの間に充足が必要な条件を列挙します。株主総会・取締役会の決議、許認可の取得・維持、重大な事態の不発生(MAE条項)などが含まれます。サイニングとクロージングが同日に行われる場合(サイン・アンド・クローズ)はクロージング条件が省略されることもあります。
表明保証(Representations and Warranties)については後述します。誓約事項(コベナンツ)では、サイニングからクロージングまでの間に売り手が守るべき行動規範(通常の事業運営の維持・重要な意思決定の事前協議など)を定めます。補償条項では、表明保証違反が発生した場合の損害賠償の範囲・上限(キャップ)・最低請求額(バスケット)・補償期間を定めます。競業避止義務では、売り手(特にオーナー経営者)が一定期間・一定地域において競合事業を行わないことを約束する条項です。通常1〜3年、場合によっては5年以上の期間が設定されます。
サイニングとクロージング
SPAではサイニング(契約書への署名)とクロージング(株式移転・代金決済の実行)が別々のタイミングで行われるのが一般的です。サイニング後、クロージング条件(株主総会決議・許認可取得・独禁法審査など)が充足されるまでの期間が「サイニング〜クロージング期間」であり、この間は売り手が通常の事業運営を維持する義務(誓約事項)を負います。案件によってはサイニングとクロージングを同日に行う「サイン・アンド・クローズ」の形式が採られることもあり、その場合はクロージング条件があらかじめ充足された状態でサイニングを行います。
SPAの交渉ポイント
SPAの交渉で特に論点になりやすいのは、表明保証の範囲と補償条項の設定です。売り手は表明保証の範囲をできるだけ狭く・補償期間を短く・補償上限(キャップ)を低く設定したいのに対し、買い手は逆の立場になります。また、競業避止義務の期間・範囲についても交渉の論点となることが多いです。弁護士を通じた丁寧な交渉が不可欠な領域です。
事業譲渡契約書
株式譲渡ではなく「事業譲渡」スキームを採用する場合は、株式譲渡契約書(SPA)の代わりに事業譲渡契約書を締結します。事業譲渡は会社全体ではなく特定の事業(資産・負債・契約・人員)を切り出して譲渡するスキームです。
事業譲渡契約書の特徴
譲渡対象の特定が非常に重要です。事業譲渡では「何を譲渡して、何を譲渡しないか」を契約書で明確に定める必要があります。引き継ぐ資産(有形・無形)・負債・契約・従業員・許認可を一つひとつ特定します。包括承継となる株式譲渡とは異なり、事業譲渡では個別の資産・契約の移転手続きが必要です。取引先との契約は相手方の同意が必要となる場合があり、従業員の転籍には個別の同意が必要です。また、消費税の観点では、事業譲渡の対象となる資産の中に消費税課税対象の資産が含まれる場合、消費税が発生します(株式譲渡では消費税は発生しない)。
事業譲渡を選ぶ場面
事業譲渡は、会社全体ではなく特定の事業部門・ブランド・資産のみを売買したい場合や、対象会社に簿外債務・訴訟リスクなどがあり、それらを切り離して純粋な事業だけを取得したい場合に適しています。買い手にとってリスクを限定できる一方、手続きが株式譲渡より煩雑になるというトレードオフがあります。
表明保証と補償条項
表明保証(Representations and Warranties)と補償条項(Indemnification)は、最終契約書(SPA・事業譲渡契約書)の中で最も重要な条項群の一つです。M&Aの実務において特に理解しておくべき内容です。
表明保証とは
表明保証とは、売り手が対象会社(または事業)の状態について、一定の事実が真実であると買い手に対して保証する条項です。財務諸表が会計基準に従って適正に作成されていること、重大な訴訟・紛争が存在しないこと、許認可が有効に維持されていること、労働関連法規を遵守していること、重要な契約が有効に存在し違反がないこと、環境法規に違反していないことなどが代表的な表明保証の内容です。
売り手は表明保証の内容を「真実である」として署名します。そのため、表明保証の内容を署名前に精査し、事実と異なる点があれば開示(スケジュール・ディスクロージャー)しておくことが重要です。
補償条項とは
補償条項とは、表明保証違反が発覚した場合に、違反した側(通常は売り手)が相手方(買い手)に損害を賠償することを定めた条項です。補償の仕組みを理解するうえで重要なのが補償上限(キャップ)・最低請求額(バスケット)・補償期間の3つです。
補償上限(キャップ)は、補償責任の最大金額の上限です。一般的には譲渡価格の10〜30%程度で設定されることが多いですが、案件によって大きく異なります。最低請求額(バスケット)は、一定金額以下の軽微な損害については補償請求できないとする下限設定です。小さな問題で頻繁に補償請求が発生することを防ぐ目的があります。補償期間は、表明保証違反を理由とした補償請求ができる期限です。一般的には1〜3年が多く、税務関連は時効を考慮して5〜7年に設定されることもあります。
表明保証保険(W&I保険)
近年、表明保証保険(W&I保険:Warranty and Indemnity Insurance)の活用が広まっています。これは、表明保証違反が発生した場合の損害を保険でカバーする仕組みです。売り手にとっては売却代金の確実な受け取りが保証され、買い手にとっては補償請求を保険から受けられるため、双方のリスクを軽減できます。中小企業のM&Aでも活用事例が増えています。
契約書を確認するときの着眼点
M&Aの契約書を確認する際に、特に注意して確認すべき着眼点を整理します。
法的拘束力の範囲を確認する
MOU・LOIなどは「原則として法的拘束力なし」とされることが多いですが、独占交渉権や秘密保持義務などの特定条項だけが法的拘束力を持つ設計になっている場合があります。どの条項が拘束力を持ち、どの条項が紳士協定に留まるのかを正確に理解したうえで署名することが重要です。
独占交渉期間と更新条件を確認する
MOUに定める独占交渉期間は、売り手の選択肢を一定期間制限する重要な条項です。期間の長さ・延長の可否・独占交渉期間中の売り手の義務(他候補への情報開示禁止など)を慎重に確認します。独占交渉期間を過度に長く設定すると、売り手にとって不利な状況が長引くリスクがあります。
クロージング条件を具体的に把握する
SPAのクロージング条件(前提条件)が多い・複雑であるほど、クロージングが実行されるまでに時間がかかり、不確実性が高まります。特に「重大な悪影響(MAE:Material Adverse Effect)条項」はその定義が広い場合、買い手が比較的容易にクロージングを拒否できる余地を与えてしまう可能性があります。MAEの定義の範囲を売り手の立場から適切に限定することが重要です。
競業避止義務の範囲を確認する
競業避止義務の「期間・地域・対象業種」が不合理に広い場合、売り手(オーナー経営者)がM&A後に自由に活動できる範囲が著しく制限されることになります。自身のキャリアプランに照らして、競業避止義務の条件が受け入れられる内容かどうかを事前に確認・交渉しておきましょう。
まとめ
M&Aのプロセスでは、NDA・LOI・MOU・SPA(株式譲渡契約書)・事業譲渡契約書など複数の書類が段階的に締結されます。各書類にはそれぞれ固有の役割があり、特に最終契約書(SPA・事業譲渡契約書)に含まれる表明保証・補償条項・競業避止義務は、M&A後の権利義務に長期にわたって影響する重要な条項です。
M&Aの契約書は専門的な内容が多く、経営者が単独で全体を把握するのは容易ではありません。弁護士をはじめとした専門家の助けを借りながら、各段階の書類の内容を正確に理解したうえで署名することが、M&Aを安全に進めるための基本です。「よくわからないまま署名しない」という姿勢がM&Aを守ります。